2018.8.2(→2018.8.6 全体微修正)

一週間くらい前までの揖斐川町の気候は、フェーン現象による中東的な乾いた暑さだったので、日向は40℃以上にもなるが、日差しを遮ったり、水遊びをしていれば、どうにか凌ぐことができた。
ところがここ数日は、西方の高気圧が移動してフェーン現象が弱まり、空気に湿度が加わった。気温は少し下がり、通常の日本的な暑さに変わってきた。湿度がプラスされて、暑さに逃げ場がなく、より辛いのはこちらだと思う。さらに、8月は気合の入ったイベントを3本も開催するので、その準備などもあって、普段よりもバタバタして、消耗しています。

時間も体力も十分でない状況で、とはいえ、それでも向き合うべき問題に対して、「自らの問題である」と設定して行動しないと、本当の意味で世の中を良くすることはできない、と感じています。一方で、無限に戦線を拡大することはできないので、やるべきことをしっかり見定める必要がある、とも。

色々考えた結果、ぼくが今やるべきことのうちの1つは、ふたりのKさんと、その”周囲の人々”に対して、しっかりメッセージを書くことだと思いました。
ひとりめのKさんからは、最近メッセージをいただいたので、この文章が返事に当たる。
もうひとりのKさんには、ぼくは会ったことはない。
誰にでも判別できるふたりの共通点は、性別や世代が同じで、自らの組織のリーダーとして活躍している(していた)こと、「社会を変える」ことをミッションとしている(していた)こと、等が挙げられる。

もちろん、「Kさん」としたのは、個人に対して批判するわけでもなく、かといって、特定を防止するためではない。読む人が読んだり、リンクをたどってしまえば、すぐに分かってしまうし。
いちばんの目的は、普遍性を持たせるためです。
他人事として、言いっ放しにして終わる、ということはありえない。
もちろん、ぼく自身も「Kさん」だし、”周囲の人々”には、ぼく自身も含まれていたし、以下は、自分自身への警句も多分に含みます。

 

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ひとりめのKさんと、その”周囲の人々”について。

表面化した問題を数えてみると、①パワハラ、②労務問題、③経理問題、④情報公開・説明責任の不足、ということになる。
これらの問題については、すでに第三者によって、正確な総括が下されつつあります。

・秋元祥治さん (NPO法人G-net 理事(創業者)・OKa-Biz センター長)

(随時追加予定)

問題が発生してからほぼ1年、明るみになってから半年を適切に対応しきれなかった結果、愛知では、あなたたちの魂と志が込められて生まれたはずの団体の略称は、「日大」や「相撲協会」と同じで、失敗した組織の代名詞になってしまった。

・久野美奈子さん (NPO法人起業支援ネット 代表理事)

また、Kさん個人の謝罪文が個人サイトに公開されているのも拝見しました。もちろん、謝罪文自体には敬意を持つべきだと思いますが、しかし、ぼくは、道半ばにすぎない、とも感じました。何が、どのように、問題を生んだのか全く書かれていない。「人としての未熟さ、経営者としての至らなさ」や「自分の力不足や人間としての至らなさ」とは、具体的に何を指しているのか。これでは、後進のひとびとにとって、自らを省みる他山の石にならないし、どうすれば改善するのかも分からない。

問題構造を分析しないままの”土下座”は、意味を持たないと思います。下記のやりとりも、非常に参考になります。

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ふたりめのKさんと、その”周囲の人々”について。

Kさんたちが起点となって現在進行形で生じている一連の問題は、総括はまだなされておらず、それはこの記事の目的ではないので割愛するが、表面化した問題としては、8/2時点で、①マンスプレイニング、②署名改変、までが起きている。具体的な指摘を下記に挙げておきます。

・佐藤あずささん (八王子市議会議員)

・田中俊英さん(officeドーナツトーク 代表)

・土谷和之さん

【「なくそう!子どもの虐待プロジェクト 2018 発起人」への公開質問に対する回答について】土谷です。私のTLでの共有が遅くなり恐縮ですが、25日付けで送付した「なくそう!子どもの虐待プロジェクト 2018…

土谷 和之さんの投稿 2018年7月27日金曜日

 

・仁藤夢乃さん(女子高生サポートセンターColabo 代表)

八策署名キャンペーンの発起人の一人、小澤…

仁藤 夢乃さんの投稿 2018年7月28日土曜日

 

ひとりめのKさんの”周囲の人々”として、問題の当事者だったぼくは、その問題を生じさせた根底の部分、問題構造についても色々な人と話したし、問題意識を持ってきました。ここにきて、ふたりめのKさんとその周囲から、次々に新たな問題が噴出してくる状況を目の当たりにして、「根底は、ほとんど相似形ではないのか?」という仮説を持つようになりました。

 

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ここからが、ふたりのKさんと、その周囲の人々へのメッセージです。
といっても、僕から見たら、尊敬もしている先輩のお二人なので、アドバイスを送るような立場ではないし、理解して聞き入れてくれるとも思えないので、「僕自身が学んだこと」という形式で、3点だけ書くことにする。

 

1)成果”至上”志向は社会のためにならない、ということ

ひとりめのKさんは謝罪文の中で、「財団やmomoの取り組みが後退することは、あってはならないこと」だと断じた。また、ふたりめのKさんは「結果を出すために、様々なメディアや政治家、官僚の方々との水面下のやりとりに忙殺されて、報告を怠るとともに、共同発起人や署名者の皆さんの権利保障を十分に思い至らなかったことは、私の力不足と認識の甘さであると思います。」とも書いた。

「成果を出す」ことは非常に重要だと思うし、事業や組織はそのために存在している。
目的を達成できない道具は、誰の役にも立たない、ということを以前書いた。

道具と目的

一方で、成果を出すことですべてが許される、解決する、価値が認められる(=成果”至上”志向)、というのは、行き過ぎではないか。
そういった考え方をするとき、ふたりのKさんの謝罪文の中でも分かるように、人は、無意識的に「自らが生み出す」「短期的な」成果に偏重した評価を下しているように思います。

「自らが生み出す」ことに固執することが、社会を改善することに繋がるでしょうか。
ぼくは、そうではないと思う。
課題(理想と現実のギャップ)を縮小させていくなら、本来の成果指標は「社会の課題の総量」となり、それがどれだけ減ったかを目指していくべきものになるはずで、「自団体の成果がどれくらいだ」と言って喜んでいるのは、認識がズレているとしか思えない。
もちろん、総量を測るのが極めて難しい課題がほとんどなので、実際の成果指標は自団体に関するもので構わないと思うけれど、この構造に一抹の違和感や歯痒さすら感じていない組織は、社会を変える組織として、信ずるに値しないのでは、とも思う。

また、「短期的な成果」に偏重することはどうか。
実際にひとりめのKさんの組織で起きていたことは、組織基盤の整備よりも事業の成果を優先した結果、スタッフが短期離脱を繰り返す、という負のスパイラルだった。
ふたりめのKさんの場合は、周囲との丁寧なコミュニケーションを取ることを放棄して、「署名」の価値を毀損した。
主役は寄付者であり、出資者であり、会員であり、署名をした一人一人であり、受益者であるはずで、ここと実行者(オペレーター)の意思が乖離した場合は、あえて一度、後退するべきではないかと思っている。
「ひとりの100歩より、みんなの1歩」ではなかったのか?

 

2)倫理なき知性は社会のためにならない、ということ

両名の謝罪文や経緯には、「自分がこう行動したら、相手がどう思うか」の洞察や共感的理解に乏しく、自らに抗する弱者を攻撃し、自らに内在化した規範を持たず、周囲にもそれを求めない、という点が共通して現れているように思う。
ひとりめのKさんの場合は、200名に謝罪行脚したというが、出資者や寄付者、本件や同様の問題で勤務先を退職せざるを得なくなったスタッフ達が網羅されていない時点で、謝罪が誰に対しての謝罪なのかが不明、という事態になってしまっている。
ふたりめのKさんの場合は、上記の仁藤さんの投稿に詳しいし、またその”周囲の人々”についても、まるでいじめ問題の「傍観者」のように振舞っているケースが見当たる。下記のコメントに詳しいです。

・実吉威さん(公益財団法人ひょうごコミュニティ財団 専務理事)

【もうめちゃくちゃ(7)】直接存じ上げませんが、発起人の小澤さんという方から真摯な表明が。見た中では一番誠実さを感じました。この投稿をシェアしている多くの方のコメントも、心を打つものが多数あります。発言すること自体に勇気を必要とする中、…

実吉 威さんの投稿 2018年7月31日火曜日

こういったコメントを出さない人がいる、という状態って、倫理なき知性、integrityの欠如でなくて、何なんだ?

 

3)誰にとって「使いやすい」存在となるのか、ということ

ふたつのケースとも、1と2によって、言葉を選ばずに言うと「手段を問わずに短期的な成果を上げる」存在として、かなり高い性能を備えている。
実際に、ふたつのケースに対して、諸々の原因を解明して解決する以前に、「彼は能力のある人間だから、活躍させないのは惜しい。今のままで、特に問題はない」と表明する人が少なからずいるので、実際にこれだけ問題が起きていたとしても、間違いなく、誰かの役には立っているのだと思う。
おおぜいの「特に問題はない」という声から推測できるのは、外部にも責任があった可能性で、1や2は彼らの本質的な性質ではないのかもしれず、歪んだ報酬系のフィードバックによって後天的に形成されたものかもしれない。

「誰が餌をやって、誰が育てたか?」をもう少し探る必要があるのかもしれない、とも思うし、自分は、誰にとって「使いやすい」存在であるのかを、見失わないようにしたいと思います。

 

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もうひとつ、ふたりのKさんをきっかけに、「社会を変える」という言葉について、改めて考えたことを書いておきます。


(注:すごい値段に見えるけど、実際のリンク先では500円くらいです)

津富先生に教わったことだが、本書には、社会的とは「平等に向けての実践」である、と書かれていて、つまり「福祉的」という意味を指す。
さらに、地域間格差が広がったいまの日本では、特定の地域内での「福祉的」という意味に加えて、より広義な意味として「都市ー地方間の平等(地域的)」という意味も含まれている、と感じる。

「社会的」な事業や活動が、実際に社会をどのように変えていくのかについて、ぼくがもっとも見慣れているモデルは、下記のp.2のものです。

・深尾昌峰さん(公益財団法人京都地域創造基金 理事長)

この図で明示されていることは、「一組織のビジネスモデルで社会を変えつつあるとき、社会全体にとっては『過渡期』にすぎない」ということだと思います。

では、どこへ渡ってゆくのか。

社会の改善は、一人一人の困りごとを、あたりまえの「権利」や、そこにしかない「価値」に変えて、消失させていくプロセスに他ならない。
谷底の暗闇に差したひとすじの光が、一人一人の力によって、遍(あまね)く照らす光に変わったとき、そこには「する」「される」といった関係性は、もはや存在しない。

「自らが生み出す」という執念によって生まれた、ひとすじの光は、確かに、あなたの目の前を、強く強く照らしたのだと思う。
しかし、遍く照らす光には、まだ、なれていない。

それは、ほんとうの意味で、「社会を変えた」ことになるのだろうか?

 

 

※2018.08.03追記

思いの外、多くの方々に読んでいただいているようです。有難いことですが、少し補足します。

筆者(プロフィール)は、2015年4月から2018年3月まで、コミュニティ・ユース・バンクmomoの事務局スタッフとして働いていました。また、2016年7月から2018年7月まで、同団体の理事として活動していました。諸々の問題については、自分自身にも原因があったと反省しています。ある部分での諦めや無責任があったのだと思います。社会から様々なものを預かっている組織の理事としては、不適当です。また、それを踏まえた上で、再度momoのメンバーとして立ち上がることができなかったです。

また、反省や後悔の範囲は、「そもそも、この文章を公開してよかったのか」という部分にも及びます。自分ができなかった尊い努力をされている方々に、水を差しているだけではないか。関係各位への十分な配慮、事実の慎重な吟味、愛や責任感をすべて欠いた、憤りからの発信で、人を傷付けたことに過ぎないのではないか。それは社会をよくするのか?

個人を責めたり、攻撃する意図で書いたのではなかったにもかかわらず、そう読めてしまう文章になってはいなかったか。本当は、誰でも、どんな組織でも、どこからでも、やり直せるはずだと信じているにもかかわらず、その機会や意欲を奪ってしまってはいなかったか。それは社会をよくするのか?

覆水盆に返らず、後悔してもしきれない、という感じでしたが、大先輩のHさんにお会いして、たっぷりお話をさせていただいて、少し救われました。曰く、生きることは恥をかくこと、恥をかきながら成長することだと。引き続き、微力ですが頑張りたいと思います。また、ふたりのKさんやその周囲の人々にも、僭越ではありますが、共有したいメッセージだと感じました。

気分を害された方がいれば、本当に申し訳ありません。