2018.07.13

長い雨が過ぎた翌日から、30℃を超える真夏日がやってきた。家族を失い、財産を失い、生活を失ったところから始まる過酷な避難生活は、どれほど辛いことだろうと思う。自然災害に限らず、だれもが突然、もしくは生まれつき、思いもよらない絶望的な境遇に陥る可能性があり、だれが選ばれるかは、ほとんど偶然だ。なので、普段から「他人みな隣人」という感じで相互に助け合うのが当たり前の社会になるといいなと思うし、「そういう社会になるよう、ぼくもあなたと一緒に頑張っています」と、自然に思えるような生活をしたい。

刻一刻と状況の深刻さが増していく豪雨のニュースと暑さと仕事とで、気力をかなり失っていたのですが、少しずつ復活してきた。文章のリハビリも兼ねて、特に参考になった4つの視点を紹介します。

 

災害時こそ急がば回れ、効果的な寄付のために持っておきたい10の視点(認定NPO法人アカツキ)
こういう時だからこそ、思考を他人に預けてしまうのではなく、みずから考えて、感じて、判断すべし、という内容。日本人の同調性や、挙国一致が得意な自然全体主義性は、災害大国であることもかなり深く関係していると思います。そのことを自覚して、そこから一歩先に進まないと、災害等の外部要因に(ある意味では)頼らずに、社会を改善することはできないのだと思う。そのための一歩目の踏み出し方が紹介されています。

 

自然災害大国の避難が「体育館生活」であることへの大きな違和感(現代ビジネス)
避難所の福祉は避難者にとっての「権利」である、という内容。ものすごく大切だけど、ものすごく軽視されている。多くの日本人にとって、なぜ「権利」が遠く離れた言葉に感じてしまうのかは、色々と考えているところです。

ちなみに、権利の対極的な意味で使われる「自己責任」は不思議な言葉として有名で、Wikipediaにもきちんと注釈がついている。

「自己責任」は本来、他者に対する責任転嫁をいましめる言葉であるが、他者に対して責任を負うべき者の責任回避だけでなく、強者が弱者を救済することを拒否した上、嘲笑する口実に利用される危険性さえある(たとえば前述の例では警官の職務怠慢が正当化される訳ではない)。

ダム一気に放水、朝5時の避難指示 愛媛・5人死亡の町(朝日新聞デジタル)
雨が長く続き、ダムが満水に近くなると、流入量と同量をダムから放水する緊急放流が行われる。今回の場合、緊急放流によって下流域の橋が流されたり、氾濫が起きたり、人が亡くなったりした。これは河川法の規則に基づいて行われたオペレーション。ちなみに、野村ダムや鹿野川ダム(共に愛媛)では、流入量が急増してから5~6時間後以降は常に緊急放流状態で、洪水調節機能を失っていた

堤防や橋、住宅地の位置や高さなど、国や自治体が行う「まち」の設計は、緊急放流を想定して行われていない。なので、緊急放流の際にはすべての市民を守ってはくれないし、責任も取ってくれない。市民一人一人が「緊急放流は今後も、あらゆる河川で起こりうるもの」と考えて、住むところを選択したり、災害時の行動を想定しておく必要がある。また、「緊急放流を行った場合、今住んでいるところだと、水没する可能性があるので、転居したい」という住民の訴えがあれば、国や自治体は可能な限り支援するべきだとぼくは思うのだけど、きみはどう思いますか(それとも、これも「自己責任」)?

【平成30年7月豪雨】政府の「空白の66時間」を視覚化(犬飼淳/Jun Inukai)
住民が避難するためのわずかな時間をダムが確保できたとしても、その時間に市民への効果的なアナウンスや注意喚起ができなくては意味が無い。今回の場合、7/5(木)14:00に気象庁が異例の記者会見を実施したので、せめて7/6(金)中に非常災害対策本部を設置して、テレビ等で注意喚起でもできれば、7/7(土)の洪水等の深刻化に間に合い、被害者(特に高齢者)の数は大分少なくなったのではないかと思う。ましてや、対応が遅れた原因が「身内の宴会」と「不要不急の海外出張」なので、はっきりと、腐敗してるな、と思います。ちなみに件の宴会には、ぼくの選挙区から選出された棚橋衆議院議員も参加していたそうです。ひどい話だ。。。

とりあえず、今回はここまで。